ー 美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう。 −

                        
                                              

 (アンドレ・ブルトン「ナジャ」)




 1913年生まれのポーランドの前衛作曲家ヴィトルド・ルトスワフスキと柳原先生は 1910年生まれ、ほぼ

同世代。


ルトスワフスキの弦楽四重奏曲が流れ出す、スズメ蜂のような羽根音が段々と近づいてくる。空気が振動

して、一匹二匹と現れる。柳原先生の最後の裸婦像(1993年)「靴下をはく女」は何かをねらっているように

構えている。両者とも聞く者、見る者をふるえさせる。柳原先生はしばしば彫刻とは「ふるえ」だと語ってい

た。

 パリのポンピドーセンターで、ピカソの「デルニエール展」が催されていた。ピカソの死の前十年間の作品

展である。それらの油彩はすべてポルノ画である。死の直前、もう精根尽きて、意識も朦朧として描かれた

二枚のデッサン。一枚は自画像、もう一枚は「自慰する女」である。

最後の最後の部屋に、これだけはと思えるほど、丁重に飾られていた。

我が身をかきむしり、目も手も飛び散って、線は行きつ、もどりつして歩行しながら森の奥へと入って行く。

柳原先生のデッサンも、最後にたどりついたヌードのデッサンも、白内障で目も見えなくなっても描きつづけ

た裸婦は、画面からはみ出して、紙はあばれ、インクはかすれ、黒く染まってゆく。ピカソの裸婦も、柳原先

生の裸婦も、夢の中でしか会うことが出来ない美しい裸の女である。あたかも現実のように、女が立ってい

るのである。長い芸術の修練の結果生まれた天からの贈り物である。芸術家の成せる業は奇跡を生む。

瑞々しい生命体は、死の前に訪れる。




20051022                                     
掛井五郎
    

                                                      


 掛井五郎

1953


東京藝術大学彫刻科卒業

1955

東京藝術大学彫刻専攻科修了
9月、東京藝術大学彫刻科副助手となる('58)

1957

21回新制作協会展に<受胎告知>を初出品。新作家賞を受賞

1958

成澤芙美と結婚

1961

新制作教会彫刻部会員になる

1962

青山学院女子短期大学に勤務

1965

アメリカ、トリニダード・トバコ、ブラジル、メキシコを旅行
7回サンパウロ・ビエンナーレ出展

1968

メキシコのベラクルス大学の客員教授になる('70)

1970

メキシコより帰国

1972

ギリシャ・エジプトを旅行

1976

<バンザイ・ヒル>で第7回中原悌二郎賞最優秀賞を受賞

1981

大韓民国を旅行
<>で第2回高村光太郎賞優秀賞を受賞

1987

青山学院在外研修で、ヨーロッパ(イタリア・スペイン・西ドイツ・東ベルリン)を旅行 パリに滞在('88)

1988

パリから帰国

1991

群馬県桐生市に住まいを移す

1992

アイルランドを旅行

<立つ>で第23回中原悌二郎賞を受賞

1993

『掛井五郎版画作品集』(グリーン・グラフィックス刊)を出版

1995

東京都港区三田に住まいを移す

1996

3月、青山学院女子短期大学を辞職

12月、ベルギーへ発つ('97)

トルコへ旅行

1997

『火の果て』(詩:島朝夫、麻布霞町画廊刊)を出版

調布に戻る

イタリアを旅行

2001

新制作協会を退会

2007

銅版画文集『夜の絵』(白井版画工房刊)を出版

2009

AT WORK KAKEI 掛井五郎作品集』((用美社刊)を出版

 


                                                            ←もどる